昨日(11月24日)、東京銀座・観世能楽堂にて東京松響会記念大会が開催されました。日頃、獨楽庵を応援していただいている方々にもご来場頂きました。皆様のご厚意に心より厚く御礼申し上げます。
東京松響会は、シテ方観世流能楽師・林喜右衛門先生に師事する社中のなかで東京で稽古を続けている者の集まりです。今回は、師の十四世林喜右衛門襲名記念という目出度い会でした。その会で、能『猩々』のシテを勤めさせて頂きました。
出来は本人的にはイマイチだったと思っておりますが、これは茶道でも小唄でも同じ。反省は反省として割り切って、次に進むしかありません。終了後の打ち上げで師匠より「能になっていた」「申し合わせのときはガキガキしていたのに」と、最高の言葉を頂きました。会までの数週間、とにもかくにもお囃子を聴くことに集中しました。お囃子が聴こえてくると、逆にお囃子から自由になれるようです。厳密に言えば、お囃子のこの節のときに、どのような型をしていなければならないという定型はあります。しかし、それだけでないことを今回は感じました。お囃子という尺のなかに「序・破・急」を入れ込む。誤解を恐れずに言えば、辻褄があっていればよいということか。申し合わせの時のガキガキはとは、言い換えればお囃子が聴こえておらず、お囃子から外れる恐怖とともに舞っていたということだと自覚しています。
これは、小唄にも共通するはずです。これまで、小唄は糸方の合図にた頼って唄いだし、かろうじて三味線の尺に間に合うという唄かたでした。これからはもっと三味線を聴いて唄うことに集中しようと思います。
酒を飲みながら玄人の能楽師と茶道の点前と能の共通点について語り合いました。お互いの共通した観点は、「体がこういう体制だったら、それに続く動きは本能に近い」ということ。つまり、「こういう態勢では、次はこういう動きしができない。それは本能にちかい」ということ。そこに体重移動という視点があるのはまさに能楽師。今回稽古を続けていて、改めて確信したことは能も点前も、型の連続であるということ。一つ一つの型を正確に体に染み込ませること。そして、ひとつの型が終了するまえに、次の型に移らないこと。
大舞台を無事に勤めることができ、一晩経って、こんなことを考えています。
